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築地反射炉

(ついじ はんしゃろ)

築地反射炉は、幕末期に佐賀藩が設置した反射炉で、現在の佐賀県佐賀市長瀬町に位置していました。この反射炉は、日本における初の実用反射炉として1850年に完成し、翌年には日本で初めて鉄製大砲の鋳造が成功しました。築地反射炉は、当時の海防強化を目指し、洋式の鉄製大砲を鋳造するために設立されました。

背景と必要性

19世紀半ば、佐賀藩の第10代藩主であった鍋島直正は、藩政改革と西洋技術の導入に積極的でした。特に、1840年代に発生したアヘン戦争で清がイギリスに敗北したことや、1808年のフェートン号事件といった外的要因により、日本でも海防の強化が急務となっていました。直正は海防の必要性を幕府に訴えましたが、独自に反射炉の建設を決定し、鉄製大砲の製造を進めることになりました。

西洋技術の導入

当時、日本の製鉄技術はたたら製鉄や甑炉に依存していましたが、これらの技術では鉄の品質が安定せず、特に大砲の製造には不向きでした。そこで、反射炉を用いた高品質な銑鉄の鋳造が必要となりました。佐賀藩はオランダの技術書『ロイク王立製鉄大砲鋳造所における鋳造法』を参考にし、これを基に鉄製大砲の製造に取り組みました。

築地反射炉の建設と試行錯誤

反射炉の建設は、1850年に佐賀城の北西に位置する築地で開始されました。同年12月には初めて火入れが行われ、翌年には1回目の鋳造が試みられましたが、初期の試行は全て失敗に終わりました。温度管理や原料の鉄の品質が原因と考えられ、改良が重ねられました。1851年5月、ようやく5回目の鋳造で鉄砲1門の鋳造に成功しましたが、試射で破裂してしまいました。その後も試行錯誤が続き、成功例が出るまでに時間を要しました。

成功への道

試射での失敗を経て、佐賀藩は鋳造技術の改良に努めました。1852年の14回目の鋳造で、ついに良質な鉄製大砲の製造が軌道に乗り、安定した製造が可能となりました。同時期には、反射炉の増設や砲身をくり抜くための機械設備も整備され、より大規模な生産体制が整えられました。

多布施反射炉の増設

1853年に黒船が来航し、幕府から品川台場向けの大砲製造の依頼を受けた佐賀藩は、銃砲製造施設のある多布施に新たな反射炉を増設しました。多布施反射炉は1854年に操業を開始し、その後数年間で50門の大砲を幕府に納入しました。1859年までには、多布施反射炉で製造された42門の大砲が品川台場に配備されました。

反射炉の操業停止

築地反射炉は1857年頃に操業を停止し、多布施反射炉も1859年に操業を終えました。この間、両反射炉では138門の鉄製大砲が鋳造されました。鋳造された大砲の中には、試射で破裂するものもあり、品質管理が難航した時期もありましたが、最終的には幕府の期待に応える製品を提供することができました。

築地反射炉の遺構

現在、築地反射炉の跡地には縮小復元模型と記念碑が設置されており、当時の技術と歴史を感じることができます。特に、24ポンドカノン砲の復元模型は、反射炉で製造された大砲の一部を再現しており、歴史的価値を感じさせます。

多布施反射炉の記念碑

築地反射炉と並んで、佐賀市内には多布施反射炉の記念碑も存在します。多布施反射炉は、佐賀藩が幕府からの依頼に応じて大量の大砲を鋳造した重要な施設であり、その歴史的意義は大きいです。記念碑は、当時の技術者たちの功績を称えるものであり、訪れる人々にその時代の息吹を伝えています。

おわりに

築地反射炉は、幕末の日本における技術革新と海防強化の象徴として、その歴史に名を刻んでいます。佐賀藩の先進的な技術導入と、大砲鋳造への挑戦は、日本が開国に向かう過程で重要な役割を果たしました。現在でもその遺構は保存され、当時の技術者たちの努力と知恵を後世に伝えています。築地反射炉跡地を訪れることで、幕末の技術革新と海防の歴史に触れることができるでしょう。

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築地反射炉
(ついじ はんしゃろ)

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