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佐賀城本丸歴史館

(さがじょう ほんまる れきしかん)

幕末から明治維新期にかけて、日本の近代化を牽引した佐賀藩の歴史を存分に楽しむことができます。

佐賀城本丸歴史館は、その時代を分かりやすく伝えるために設立された歴史博物館です。

本丸御殿の遺構を保護しながら、日本で初めて本丸御殿を復元したことで知られており、約2,500平方メートルの広さを誇っています。館内では、佐賀藩の科学技術や偉人たちなど、幕末から明治維新期にかけての佐賀の役割をわかりやすく紹介しています。

この館は木造復元建物としては全国最大級の規模を誇り、当時の雰囲気を存分に味わうことができる魅力的な空間です。また、常駐のボランティアガイドによる解説や週末に行われる演劇なども大変人気があります。

佐賀城(さがじょう)

日本に存在した城で、現在の佐賀県佐賀市城内にありました。もともとは肥前国の戦国大名である龍造寺隆信やその後継者である龍造寺宗家の居城でしたが、慶長期に鍋島氏による改修が行われ、現在の佐賀城としての姿が形作られました。古くは佐嘉城とも呼ばれ、別名では沈み城や亀甲城とも知られていました。江戸時代初頭に完成し、それ以降は外様大名の佐賀藩鍋島氏の居城として使われていました。

佐賀城は佐賀市の中心に位置しており、城郭の構造は輪郭梯郭複合式平城です。50メートル以上の幅がある堀は、石垣ではなく土塁で築かれています。平坦な土地にあるため、城内が見えないようにマツやクスノキが土塁に植えられていました。

城が樹木によって覆われて見えにくいことや、かつては外堀が幾重にも巡らされていて、攻撃があった場合には多布施川から水を送り込んで敵の侵攻を防衛する仕組みが備えられていたことから、「沈み城」という名前がついていました。

また、「慶長御積絵図」という城郭と城下町の完成予想図と、後に描かれた現状を反映した城下絵図を比較すると、櫓の数が減っていたり本丸や二の丸の石垣が簡素化されていたりと、完全に完成した城ではなかったことがわかります。

江戸時代には、城下と城内に掘割が縦横に張り巡らされ、生活用水として使用されていました。また、城下には豊前小倉から長崎まで続く長崎街道が通り、宿場町としても栄えていました。

明治時代初期に佐賀の乱が起こり、ほとんどの建造物が焼失しましたが、現在でも鯱の門と続櫓が残っており、国の重要文化財として指定されています。天守は享保11年に焼失したとされており、最近の調査では小倉城とほぼ同じか、わずかに大きい規模だった可能性が推測されています。

現在、城跡は佐賀城公園として整備されており、木造で復元された本丸御殿は佐賀県立佐賀城本丸歴史館として一般に公開されています。また、周辺には東堀や土塁が復元され、かつての姿を取り戻しつつあります。二の丸には佐賀県庁や合同庁舎、放送局、美術館、博物館、小中高の学校などの公共施設が建ち並び、佐賀県の政治と経済の中心地となっています。

歴史・沿革

戦国時代
佐賀龍造寺城(別名:村中城)は、肥前の戦国大名である龍造寺隆信やその後継者である龍造寺氏の宗家居城でした。龍造寺氏は平安時代末期に土着し、その後龍造寺氏として続いてきました。しかし、1569年に大友宗麟率いる大軍の攻撃により城周辺が焼かれ、城は窮地に追い込まれました。龍造寺軍は籠城し、夜襲によって大友親貞を討ち取るなど奮戦しました。その後は龍造寺隆信の子政家や孫の高房の居城となりました。

安土桃山時代・江戸時代
佐賀城はもともと龍造寺氏の居城である村中城を改修・拡張したものです。龍造寺隆信が1584年に戦死すると、龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握りました。直茂は村中城の改修計画を立てましたが、龍造寺氏の居城であるため計画を実行せず、江戸時代の1602年になってようやく改修が始まりました。直茂の計画に基づき、次の藩主である鍋島勝茂が1611年に完成させました。城は幾度か火災に遭いましたが、1726年の大火で本丸の建物の大部分が焼失しました。その後、二の丸に御殿が建てられ、1835年の火災では再び本丸が焼失しました。現在残っている鯱の門と続櫓は1838年に再建されたものです。天守は享保の火災以降再建されていません。

近現代

1874年(明治7年)、佐賀の乱と呼ばれる反乱が勃発し、佐賀城は一時的に反乱軍に占拠されました。この戦闘により建物の大部分が失われました。鯱の門には当時の弾痕が現在も残っています。その後、佐賀城址には学校や測候所、県庁などの公共施設が建設されました。鯱の門と続櫓は1953年に佐賀県の重要文化財に指定され、1957年には国の重要文化財に指定されました。協和館と呼ばれる明治時代の建物は天守台に移築され、活動に利用されましたが、誤って天守の構造物と認識されることが多かったため、2003年に解体されることとなりました。

本丸御殿の一番奥にある「御座間」は、鍋島直正の居室でしたが、1958年に南水会館として水ヶ江大木公園に移築されました。2001年に市の重要文化財に指定され、2004年に本丸御殿の復元に伴い元の位置に戻されました。

2006年4月6日、佐賀城は日本100名城(89番)に選定されました。

2012年以降、天守台の大規模な発掘調査や文献調査が行われています。これにより、外観は4重屋根であるが、内部は上段(5階)、下段(4階)、二段(3階)、三段(2階)、その外(1階)の5階建てであり、最上層は上下2階建てという特徴が明らかになりました。一階は後期天守閣としては珍しい書院造りであったと推定されています。また、窓は発掘調査によって出土した金具から突上戸であったと推定されています。また、現存する天守閣の絵図として寛永3年(1626年)の寛永御城并小路町図と慶長佐嘉小城内絵図の二つが残されていますが、屋根の装飾を除いて類似点があります。これらの特徴は小倉城天守を参考にしたものであることが分かってきました。

建築物

1691年(元禄4年)、オランダ商館員でドイツ人医師のケンペルが記した「江戸参府紀行」によれば、佐賀城は肥前国の城下町に位置し、城主である松平肥前守が大きな城に住んでいたとされています。町そのものは非常に広く、人口も多く、長い地域に広がっていたそうです。また、町筋は幅広く、規則正しく東や南に向かってまっすぐ通っており、運河や川も流れていました。これを利用して人々は有明湾まで行くことができたのです。

鯱の門は本丸の表門であり、1836年に再建された際に建造されました。その名前は、屋根に乗る青銅製の鯱に由来しています。銘には「冶工谷口清左衛門」と刻まれています。

本丸御殿は木造で復元され、現在は佐賀県立佐賀城本丸歴史館となっています。藩主の居間である「御座間」は現存する建築物です。

南西隅櫓台は六角形に整形された石を積み上げた亀甲積みの構造を持っています。

Information

名称
佐賀城本丸歴史館
(さがじょう ほんまる れきしかん)
リンク
公式サイト
住所
佐賀県佐賀市城内2丁目18-1
電話番号
0952-41-7550
営業時間

9:30~18:00

定休日

12月29日~1月1日
※その他 臨時休館日あり

料金

無料

駐車場
無料 120台
アクセス

JR佐賀駅から佐賀城跡方面行「博物館前」バス停で下車

佐賀大和ICから佐賀市街地方面へ約25分

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