四阿屋神社は、佐賀県鳥栖市牛原町に位置する歴史ある神社で、養父郡の総社として知られています。古くは「四阿屋宮(あずまやぐう)」と呼ばれ、神社の旧社格は郷社に指定されていました。四阿屋神社はその古い歴史と美しい自然環境から、多くの参拝者に親しまれており、地域の信仰の中心としても重要な役割を果たしてきました。
四阿屋神社は、古くから地域に根付いた信仰の場であり、神社の歴史的な背景や自然環境が調和した神聖な場所です。佐賀県鳥栖市に位置し、参道や社殿は自然に囲まれており、訪れる人々に静かな癒しを提供しています。古代から続くこの神社は、長い歴史の中で多くの伝説や出来事を経験し、今でも地域の人々に大切にされています。
四阿屋神社の創建は、天智天皇元年(662年)にまでさかのぼります。尾張の熱田神宮から神を勧請したことが始まりとされ、延暦10年(791年)には住吉明神と春日明神を併祀していました。当初は「東屋明神」と呼ばれていましたが、後に四阿屋と表記が変わり、社名も四阿屋神社と改められました。
『佐賀県神社誌要』によると、四阿屋神社があるこの地は、景行天皇が筑紫巡狩の際に駐輦し、その後、日本武尊が熊襲征伐の際にも駐輦した場所とされています。「東屋(あずまや)」という名前は、行宮(仮の宮)を意味し、その地名に由来しています。この神社の歴史は、日本古来の伝承と深く結びついています。
天文年間(1532年~1555年)に大友義鎮の来攻により、四阿屋神社の社殿は一度焼失してしまいました。その後、勝尾城主である筑紫広門により再建が図られましたが、再び島津義久の来攻により社殿は焼失し、残っていた文書も失われてしまいました。しかし、神職により御神体は守られ、小さな祠として再建されました。
江戸時代になると、四阿屋神社は養父郡の総社として対馬藩の庇護を受け、文禄元年(1592年)には宗義智の領地となり、社殿が改築されました。明暦3年(1657年)には宗義成によって社殿が再建され、社号も四阿屋宮に改められました。宝暦10年(1760年)には現在の形に近い社容が完成し、神社の姿はほぼ今日と同じものとなりました。
四阿屋神社は、近代社格制度において最初は村社に格付けされましたが、1881年(明治14年)に郷社に昇格しました。この際、山神社(大山祇尊)や田代神社(豊受大神)が合祀され、神社の範囲と祭祀の規模も拡大されました。例祭はかつて2月15日に行われていましたが、大正時代までに4月1日に変更されました。
四阿屋神社の例祭は、毎年4月1日に行われる神幸祭が有名です。かつては、養父郡の総社として地域の多くの村からの奉納がありました。例えば、牛原の獅子舞、宿の鉦浮立、養父のはぐま、蔵上の御田舞といった、各村ごとの伝統的な芸能が奉納されていました。特に「御田舞(おんだまい)」は今でも蔵上町の老松神社で続けられており、地域の重要な文化遺産として保護されています。
四阿屋神社の主祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)です。また、住吉大神や志賀大神、大山祇尊、豊受大神などの神々も併せて祀られています。これらの神々は、古代日本の歴史や伝承において重要な役割を果たしており、地域の人々からも深い信仰を集めています。
四阿屋神社で行われる御田舞は、蔵上町の老松神社で秋に奉納される神事です。御田舞は、農耕儀式の一つであり、田植えを中心とした農耕の所作を演じ、豊作を祈願する行事です。この神事は1959年(昭和34年)に佐賀県の重要無形文化財に指定され、1976年(昭和51年)には国の選択無形民俗文化財にも選ばれました。約30名の出演者によって、勇壮な舞が繰り広げられ、地域の伝統文化が今も息づいています。
四阿屋神社の御田舞は、10月20日を中心に行われる老松神社の秋祭り「おくんち」で奉納されます。仮設の舞台で演じられる田植えの所作や鬼舞など、40分ほどの儀式は、地域の人々にとって大切な伝統行事として受け継がれています。特に子供たちに農耕の所作を伝える場としても重要視されており、地域の文化遺産として保護されています。
四阿屋神社は、古くからの歴史と伝統を持つ神社であり、佐賀県鳥栖市の地域文化に深く根付いています。神社の祭りや儀式は、今もなお地域社会において重要な役割を果たし、地域住民にとっての精神的な拠り所となっています。また、四阿屋神社の御田舞は、農耕儀式としての文化的な価値が高く、今後も地域の伝統を守り続けるための取り組みが続けられていくでしょう。
四阿屋神社のような古い神社は、現代の生活の中でその価値を見直すことが重要です。地域の伝統行事や文化的な遺産として、次世代へと伝承していくための取り組みが求められています。神社やその行事を守るための地域の協力が不可欠であり、四阿屋神社もその一環として、地域社会との関わりを深めながら未来に向けて歩んでいます。