仁比山地蔵院は、佐賀県神埼市神埼町的(いくは)に位置する天台宗の寺院で、本尊は千手観音(千手千眼観世音菩薩)です。この寺院は長い歴史を持ち、地域の信仰の中心として人々に親しまれています。以下では、仁比山地蔵院の歴史や文化財について詳しくご紹介します。
かつて仁比山には三十六坊と呼ばれる寺院群があり、その総称を仁比山護国寺(にいやまごこくじ)といいました。この寺院群は、山王日吉宮(現・仁比山神社)の神宮寺で、三十六坊の一つである地蔵院は不動院の末寺として存在していました。しかし、現在では地蔵院のみが残り、その歴史や文化財を後世に伝えています。
仁比山護国寺は、伝承によれば天平元年(729年)に聖武天皇の勅願により行基が創建したとされています。また、仁明天皇の承和11年(844年)には、唐から帰国した円仁(慈覚大師)がこの地で一千座の護摩を修めたと言われています。この際、円仁は閼伽井(あかい)を掘り出し、明星水と名付け、さらに日吉宮と記された額を発見しました。この出来事を天皇に奏上したところ、「仁明天皇の『仁』」と「比叡山の『比』」を合わせて「仁比山」と名付けられたと伝えられています。
戦国時代には、仁比山護国寺と山王日吉宮は度重なる兵火にさらされました。特に永禄2年(1559年)には大友宗麟の兵によって焼失し、その後、江戸時代初期に鍋島藩の藩祖である鍋島直茂や初代藩主勝茂によって再建されました。現在の仁王門もこの時期のものと推定されています。
江戸時代の寺社領記録によれば、仁比山護国寺水上坊不動院は地米38石余り、仁比山吉祥院は御蔵米30石を所有していたことが記されています。しかし、明治4年(1871年)の神仏分離令によって、不動院や吉祥院は廃され、地蔵院のみが存続することになりました。
その後、地蔵院は伊丹弥太郎の案により、吉祥院の跡地に移されることになりました。伊丹弥太郎は、不動院と地蔵院の跡地に別邸と庭園を築き、これが後に「九年庵」として知られるようになりました。この庭園の作庭に際しては、地蔵院に残されていた石灯籠などが利用されており、現在もその面影が見られます。
仁比山地蔵院は、九州西国三十三箇所の二十番札所としても知られており、参拝者が訪れる観音霊場の一つとなっています。地元の人々だけでなく、観光客や巡礼者たちにも親しまれています。
地蔵院の本尊である千手観音像は、かつて護国寺の本尊として祀られていました。この観音像は、行基作と伝えられ、金泥黒漆塗りで高さ175 cmの等身大の仏像です。彫りが浅く、穏やかな表情が特徴で、平安時代後期の作風が見られます。九州七観音の一つとしても数えられ、多くの参拝者に尊敬されています。
仁比山地蔵院には「永正十四天丁丑八月」(1517年)の銘が刻まれた六地蔵塔があります。この塔は、神埼市内最古のもので、高さ約2メートルあります。寶淋坊(吉祥院)の修業僧が自身の死後の冥福を祈念して建立したとされており、神埼市の重要文化財に指定されています。
地蔵院には、龍造寺信美作の阿弥陀如来像や、不動院の不動尊像、脊振山水上坊(背振千坊の一つ)の不動明王像など、多くの文化財が所蔵されています。また、文久2年(1862年)建立の備前石工による薬師如来像や、山王日吉宮(日吉権現)の権現仏なども大切に保管されています。
仁比山神社の参道入口には、かつての護国寺の山門と考えられている仁王門が残っており、門の左右には2体の金剛力士像が鎮座しています。この仁王門と仁王像も神埼市の指定文化財に指定されており、現在は仁比山神社がその管理を行っています。
仁比山地蔵院は、その歴史的な風情や美しい景観から、メディアでも取り上げられています。特に、2004年1月から放送されたTBSテレビの『日曜劇場』「砂の器」のロケ地としても使用され、多くの人々にその魅力を伝えました。
仁比山地蔵院は、歴史的な寺院としての重要性だけでなく、地域の文化財や信仰の場としても大きな役割を果たしています。訪れる人々は、その静寂で荘厳な雰囲気に心を打たれ、多くの文化財を通じて日本の仏教文化に触れることができます。また、九州西国三十三箇所の札所として、観音霊場を巡る巡礼者たちにも広く知られており、その信仰の厚さが伺えます。