千栗八幡宮は、佐賀県三養基郡みやき町に位置する由緒ある神社です。肥前国の一宮として広く知られ、かつては国幣小社に指定されており、現在は神社本庁の別表神社に登録されています。社格の高さや歴史の深さから、地域のみならず多くの参拝者に信仰され続けています。
千栗八幡宮は、神亀元年(724年)に肥前国の養父郡司・壬生春成が八幡神の神託を受け、千根(ちこん)の栗が生えている場所に社を建立したと伝えられています。このことから「千栗八幡宮」の名前が生まれました。境内には様々な建造物や摂末社が点在し、特に粥祭が行われるお粥堂や摂社の武雄神社が目を引きます。
千栗八幡宮の入り口に立つ一の鳥居は、慶長14年(1609年)に鍋島藩祖・鍋島直茂が奉納した石造の肥前鳥居であり、町の文化財に指定されています。この鳥居は長い歴史を持ち、参拝者を神域へ導く重要な存在です。
本殿には、主祭神である応神天皇、仲哀天皇、神功皇后が祀られています。また、配神として難波皇子や宇治皇子、住吉明神、武内宿禰も祀られており、多くの神々が集う場所です。
千栗八幡宮の歴史は古く、『鎮西要略』によれば神亀元年(724年)に創建されたとされています。また、承平年間(931年〜938年)には宇佐八幡宮の別宮として崇敬を受け、五所別宮の一つとしての地位を確立しました。南北朝時代には千栗城が近くに築かれ、戦国時代には度重なる戦乱により社殿が幾度も焼失しましたが、天正11年(1583年)に龍造寺政家によって再建されました。
その後、鍋島氏の保護により社領が寄進され、肥前国一宮としての地位が一層強固になりました。江戸時代には後陽成天皇より「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」の勅額を賜り、神社の威光が広く知られるようになりました。
千栗八幡宮には複数の摂末社があり、特に武雄神社や鳩森稲荷神社、天満宮が知られています。また、東尾区には下宮(頓宮)があり、祭事の際には御旅所として重要な役割を果たしています。
千栗八幡宮では年間を通じて様々な祭事が行われています。特に有名な祭事の一つに「粥祭」があります。
3月15日に行われる粥祭は、地元では「おかゆさん」として親しまれており、その年の豊作・凶作を占う粥占(かゆうら)が行われます。2月16日に社前の祓川の水で粥をたき、筑前・筑後・肥前・肥後の4つの地域を表す鉢に分けて神殿に納め、3月15日にその結果を確認します。鉢に生えた五色の黴の方角がその年の豊作地を示すとされています。
特に2005年の粥祭では「地震に注意」との占い結果が話題となり、福岡県西方沖地震が占いの5日後に発生したことから、翌年の粥占にも多くの関心が集まりました。
秋季大祭は9月15日に近い日曜日に行われ、佐賀藩の大名行列を模した行列浮立が奉納されます。これは、殺生を戒め、五穀豊穣を祈願する大切な行事であり、近隣の地区が6年に一度、奉仕地区として行列を担当します。
行列には伝統的な太鼓や笛、鉦(かね)が鳴らされ、その周りを獅子舞が練り歩きます。行列の中心には神輿があり、これを先導するのが犀(しゃー)の毛・守子と呼ばれる重要な役割です。
行列浮立の際には、締元(しめもと)と呼ばれる秋季大祭期間中の神様の宿泊所が設けられます。この締元は御幣を使ってくじで決められ、選ばれた家がその年の締元を務めます。選出は静電気を利用して行われ、年によっては一日かかることもあります。
千栗八幡宮には多くの文化財が残されています。
千栗八幡宮には社殿創設の絵図(2軸)が佐賀県指定有形文化財として保存されています。これらの絵図は、社殿の創設当時の様子を伝える貴重な資料です。
また、第一鳥居として知られる肥前鳥居がみやき町指定有形文化財として1979年に指定されています。
令和6年(2024年)には千栗八幡宮が創建1300年を迎えます。この節目を祝う奉幣祭が2日間にわたって開催され、天皇陛下からの幣帛料が奉納されました。
初日には秋季大祭と合わせて行列浮立が行われ、石貝区が奉仕地区として参加しました。2日目には境内整備に協力した企業や関係者に対する奉祝祭が行われ、創建1300年を記念する限定の御朱印帳や記念品も販売されました。
最寄り駅はJR九州鹿児島本線の久留米駅で、そこから徒歩約35分で到着します。また、西鉄バスを利用する場合は、久留米駅から40番のバスで「千栗八幡宮前」バス停で下車し、徒歩すぐの場所にあります。