基肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、日本の古代山城です。この城跡は、1954年(昭和29年)3月20日に国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されました。基肄城の起源は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、日本の防衛を目的として築かれた城です。
基肄城は、大和朝廷が防衛強化のために建設した山城で、665年(天智天皇4年)に築かれたと『日本書紀』に記されています。城の建設は、軍事技術に精通していた亡命百済人、憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)が担当しました。基肄城は、大宰府から約8キロメートル南に位置し、標高404メートルの基山を中心に広がる城郭です。山麓には大宰府から続く古代官道が通り、交通の要衝として重要な役割を果たしていました。
基肄城の城壁は、約3.9キロメートルにわたって基山の3つの谷を囲むように築かれ、その多くは土塁で構成されていますが、谷部では石塁で補強されています。城内には、北側の「北帝門」や「東北門」など4つの城門が確認されており、その一部は推定のものです。また、山頂からは北側に博多湾、南側に久留米市や有明海、東側に筑紫野市、西側には背振の山並みが一望できます。
発掘調査では、約40棟の礎石建物跡や軒丸瓦、土器などが確認されており、古代の城の姿が浮かび上がっています。また、基肄城の代表的な遺構である水門遺構では、通水口が国内最大級の規模であることが確認されました。さらに、2015年の保存修理において新たに3つの通水溝が発見され、この城が高度な排水システムを持っていたことが明らかになりました。
基肄城は、その立地から大宰府を守る南の防御拠点として機能していました。特に有明海方面からの侵攻に備えるために築かれたとされており、他の軍事施設と連携することでその防御力を強化していました。例えば、大野城や阿志岐山城、高良山神籠石などの軍事施設と連携して、大宰府全体を守るシステムの一部として機能していたと考えられています。
天智政権は、白村江の敗戦以降、唐や新羅と友好外交を維持しつつ、日本の防衛体制を整えていきました。その一環として、対馬から九州北部、瀬戸内海、畿内に至るまでの広範囲にわたる防衛線が構築されました。基肄城もこの防衛体制の中で重要な役割を果たし、大宰府や水城、他の山城と連携して国土を守る体制が整えられました。
基肄城が古代山城であることが明らかになったのは、1912年(大正元年)に関野貞が実施した踏査研究がきっかけでした。その後、1928年(昭和3年)以降には久保山善映や松尾禎作がさらなる研究を進め、1959年には鏡山猛が城跡の調査を実施しました。また、1976年と2003年からの3年間には、森林整備に伴う発掘調査が行われ、2009年から2015年にかけて水門石垣の保存修理が行われました。
基肄城を含む日本の古代山城は、対外的な防備のための軍事拠点としての役割だけでなく、地方統治の拠点としての役割も持っていたとされています。これにより、地方の政治や経済の中心として機能していた可能性があり、その重要性が再評価されています。
基肄城を築いた天智天皇を讃えるため、1933年(昭和8年)には「天智天皇欽仰之碑」が建立されました。これは、当初計画されていた銅像の代わりに建立されたもので、現在も基肄城跡にその姿を留めています。
基肄城跡の見学には、JR九州鹿児島本線の基山駅が最寄駅となります。駅からは徒歩で約50分ほどかかりますが、南門跡を経由して山頂に向かうことができます。車を利用する場合は、久留米基山筑紫野線や宮浦ICを経由し、基山草スキー場の手前にある駐車場から徒歩約10分で特別史跡基肄城跡に到着します。
基肄城では、2013年から2015年にかけて「水城・大野城・基肄城 1350年記念事業」が行われ、関連自治体や民間も協力してさまざまな記念行事が開催されました。また、基山町のイメージキャラクター「きやまん」がまんが『基肄城のヒミツ』で活躍するなど、地域のPR活動も行われています。
2015年10月には「第5回 古代山城サミット」が基肄城で開催され、基肄城の歴史や文化に対する関心が高まりました。このイベントでは、古代山城の研究者や歴史愛好家が集まり、基肄城の重要性やその保存の意義が再確認されました。
基肄城は、日本の古代山城の中でも特に重要な防衛拠点の一つです。白村江の敗戦を機に築かれたこの城は、唐や新羅の侵攻に備えるための要所としての役割を果たし、現在でもその歴史的価値は高く評価されています。発掘調査や保存修理によって、当時の高度な建築技術や防衛システムが明らかにされ、今後もさらなる研究が期待されます。