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佐賀県立 名護屋城博物館

(さが けんりつ なごやじょう はくぶつかん)

佐賀県唐津市鎮西町に位置する「佐賀県立名護屋城博物館」は、豊臣秀吉が朝鮮半島への出兵拠点として築いた名護屋城跡に隣接する博物館です。本館では、日本列島と朝鮮半島との長い交流の歴史を展示しており、豊臣秀吉が関与した戦争に関する資料や文化交流に関する展示が行われています。

博物館の展示概要

名護屋城博物館では、以下の3つのテーマに基づく展示が行われています:

常設展示

名護屋城博物館の常設展示は、日本列島と朝鮮半島の長い歴史的交流をテーマとしています。原始・古代から近現代に至るまで、両国の交流を年代別に紹介しています。

名護屋城以前の歴史

最初の展示室では、原始・古代から中世にかけての日本列島と朝鮮半島の交流が取り上げられています。この時代、人々が頻繁に行き交い、文化や技術が相互に影響を与えました。特に、古代の文化交流の証として、出土した陶磁器や工芸品が展示されています。

歴史の中の名護屋城

この展示の中心は、1592年から7年間にわたって豊臣秀吉が行った朝鮮出兵(文禄・慶長の役)です。名護屋城はその出兵拠点として築かれ、多くの武将や兵士がここを拠点に朝鮮半島へ出発しました。博物館では、出兵に関連する史料や当時の地図、武具などが展示されています。

黄金の茶室

豊臣秀吉が名護屋城に持ち込んだとされる「黄金の茶室」を再現した展示も注目の一つです。この茶室は、秀吉が外交使節や大名をもてなすために使用したもので、豪華絢爛な室内装飾が特徴です。2022年に公開されたこの展示は、当時の豊臣秀吉の権力と影響力を象徴しています。

名護屋城以後の歴史

名護屋城の役割が終わった江戸時代以降の歴史も展示されています。朝鮮通信使や工芸品、儒学者の雨森芳洲の活動など、両国の交流が続いたことが紹介されています。特に、平和的な交流の象徴として朝鮮通信使の役割が強調されています。

特別史跡 名護屋城跡および陣跡の保存と発掘

名護屋城跡とその周辺の陣跡は、特別史跡として発掘・保存されています。金箔瓦や陶磁器など、発掘された遺物が展示されており、保存整備の状況についても説明されています。

博物館の収蔵品

名護屋城博物館には、特に注目すべき貴重な収蔵品がいくつかあります。これらの品々は、両国の歴史的なつながりを象徴しています。

高麗金板経(こうらいきんばんきょう)

この貴重な経典は、11枚の金板で構成され、観世音経が刻まれています。高麗時代に制作されたこの経典は、当時の末法思想に基づいて埋納されたと考えられています。朝鮮半島と日本の宗教的な交流の一環として、非常に貴重な資料です。

鳥形土器(とりがたどき)

朝鮮半島の三国時代に制作されたこの土器は、水鳥の形をしており、当時の人々が死者の魂を霊界に運ぶ存在として鳥を信仰していたことを示しています。3〜4世紀の慶尚南道南東部で作られたとされるこの土器は、宗教的な儀式に使用されたと考えられています。

金銅如来立像(こんどうにょらいりつぞう)

統一新羅時代に制作されたこの仏像は、中国仏教の影響を強く受けており、盛唐の仏像様式を反映しています。9世紀後半の特徴的なデザインは、重厚で動的な印象を与え、当時の新羅仏教の美術的な高まりを象徴しています。

北政所宛豊臣秀吉自筆書状

この書状は、文禄2年(1593年)に豊臣秀吉が北政所(おね)に宛てたものです。朝鮮出兵中の名護屋から送られたこの手紙は、当時の講和交渉や秀吉の健康状態、そしておねへの気遣いを詳細に記しています。秀吉の個人的な一面が垣間見える貴重な史料です。

展示内容に対する批判

名護屋城博物館の展示内容に対しては、特に日本と朝鮮の歴史に関する部分で批判が寄せられることがあります。2012年には、市民から展示内容が「韓国側の主観に基づいている」と指摘されました。佐賀県はこの批判に対し、多角的な視点で検討した上で現在の展示内容になっていると説明しています。2016年にも、一部の団体が展示内容に対する異議を唱え、歴史的な解釈の問題が再び取り上げられました。

佐賀県立名護屋城博物館の見どころ

名護屋城博物館は、豊臣秀吉の時代から現代に至る日韓の歴史的な交流を知ることができる貴重な場所です。特に、黄金の茶室や豊臣秀吉自筆の書状など、歴史的に価値のある展示物が多く、訪れる価値が十分にあります。また、特別史跡としての名護屋城跡も見学できるため、歴史に興味のある方にとっては大変魅力的なスポットです。

Information

名称
佐賀県立 名護屋城博物館
(さが けんりつ なごやじょう はくぶつかん)

唐津・呼子

佐賀県