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唐津城

(からつじょう)

舞鶴公園内にある「唐津城」(舞鶴城)は、唐津市の象徴とも言える街のシンボルであり、舞鶴橋から見上げると美しい姿が広がります。

天守閣からの眺めも素晴らしく、虹の松原や鏡山の風光明媚な「松浦潟」の壮大な景色を一望することができます。

城の築城は慶長13年(1608年)で、初代 唐津藩 藩主である寺沢志摩守広高によって7年の歳月をかけて建てられました。唐津城は満島山と呼ばれる陸続きの島に位置し、海と川に囲まれたこの満島山を本丸としていました。城内には石垣と濠がめぐらされていたと伝えられています。

明治4年(1871年)に廃藩置県が行われ、唐津城は廃城となり、その本丸跡地は舞鶴公園となりました。現在の唐津城は、文化観光施設として昭和41年(1966年)に完成しました。

その中心には5層の美しい天守閣が誇らしげにそびえ立っています。この天守閣を中心に、左右に広がる松原が鶴の翼を思わせる形状をしており、唐津城は別名「舞鶴城」とも呼ばれています。

城内は郷土資料館となっていて、名護屋城、唐津城、松浦水軍、隠れキリシタンに関する考古資料、藩政時代の貴重な資料や武具、唐津焼の展示物、考古出土品などがあります。天守閣の5階は展望台となっており、玄界灘や松浦潟など、見事な景色を一望することができます。唐津城の天守閣へは、石段を歩いて登るか、エレベーターを利用することができます。

唐津城周辺には舞鶴公園があり、桜や藤の花が美しく咲き誇る花の名所となっています。夜には唐津城がライトアップされ、美しい天守閣の姿を楽しむことができます。桜の見頃は3月下旬、藤の見頃は4月下旬です。また、1階にはお土産処もあります。

城は松浦川河口の満島に唐津藩主寺沢志摩守広高によって築かれ、慶長13年に完成しました。現在の天守閣は昭和41年に建てられたもので、内部はいます。展示されているや藩政資料、そして見事な唐津焼の資料もあります。

唐津藩初代藩主の寺沢広高(1564-1633)は尾張生まれで、秀吉の指揮下で朝鮮へ出兵しました。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、天草も領有しました。
水野忠邦(1794-1851)は唐津藩江戸屋敷で生まれ、文化8年から14年まで唐津藩主として藩政改革を行いました。その後、浜松に転封され、幕府で天保改革を推進しました。
小笠原長行(1822-91)は唐津城本丸で生まれ、藩主長昌の子でした。養父の長国に代わって藩政改革を行い、後に幕府の老中として生麦事件や長州征伐の処理に追われました。彼は小笠原長生の父でもあります。

唐津城は、唐津市街の北部に位置し、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸、満島山に築かれました。本丸は突き出た満島山の頂上に配置され、その西側に二の丸と三の丸が配置された連郭式の平山城です。北側は唐津湾に面しているため、海城とも呼ばれ、現在でも海に直接立ち上がる石垣が見られます。松浦川の右岸には虹の松原(国の特別名勝)が広がり、城から左右に広がる砂浜が鶴が翼を広げたように見えることから舞鶴城とも呼ばれています。

唐津城は慶長7年(1602年)から慶長13年(1608年)にかけて築城され、江戸時代を通じて唐津藩の藩庁となりました。

廃城後、本丸は舞鶴公園となり、二の丸には早稲田佐賀中学校・高等学校が建てられました。その他の二の丸と三の丸の跡地は市街化が進んでいます。現在でも石垣と堀が遺構として残っています。また、1966年(昭和41年)には慶長様式の模擬天守が天守台に建てられました。さらに、櫓や門が建てられ、石垣や堀も復元されています。舞鶴公園上段広場までの高低差が34メートルあるため、有料の斜行エレベーターが設置されています。

沿革

文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の家臣である寺沢広高がこの地に封じられました。広高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍に属し、肥後国天草郡4万石を加増され、総石高12万3千石の外様大名となりました。慶長7年(1602年)から本格的な築城が始まり、慶長13年(1608年)に完成しました。築城の際には、東側の唐津と地続きであった満島山を切り離し、松浦川が唐津湾に注ぐように流路を変更しました。また、秀吉の死後、廃城となっていた名護屋城の遺材を利用し、九州各地の大名からの支援を得て築城しました。柳川堀、佐賀堀、肥後堀、薩摩堀などの堀の名前には、普請に協力した大名の領地名が残っています。

二の丸には藩庁御殿が建てられ、三の丸は侍屋敷とされました。天守は天守台までの築造にとどまりました。築城当初は天守が存在していたとの説もありますが、寛永4年(1627年)の幕府の記録には天守の存在が記されておらず、天守を示す証拠も見つかっていません。天守を描いた絵図や設計図も存在せず、現在の天守は慶長期の様式を想定して昭和41年(1966年)に再建されたものです。

広高は土木事業にも長けており、松原の保護と防風林の育成にも取り組みました。これが現在の日本三大松原のひとつである虹の松原として残っています。

広高の子である堅高は、島原の乱の際に一揆勢に攻められたため、天草領の富岡城を失い、天草領4万石を没収されました。堅高は正保4年(1647年)に江戸の藩邸で自殺し、嗣子がいなかったため、寺沢家は断絶しました。

その後、寺沢氏に代わり、譜代の大名5家が入れ替わりました。寺沢氏が改易された後は一時的に天領となりましたが、慶安2年(1649年)、播磨国明石城主の大久保忠職が城主となりました。延宝6年(1678年)、大久保氏が下総国佐倉城に移り、代わって大給松平乗久が入城しました。元禄4年(1691年)、大給松平氏が志摩国鳥羽城に移り、代わって土井利益が入城しました。宝暦12年(1762年)、土井氏が下総国古河城に移り、三河国岡崎城から水野忠任が入城しました。文化14年(1817年)、のちに天保の改革を行う水野忠邦は出世のために遠江国浜松城への移転を望み、陸奥国棚倉城から小笠原長昌が入城し、明治維新まで小笠原氏の居城となりました。

近代以降

明治4年(1871年)に廃藩置県が行われ、名護屋城は廃城となりました。建物は払い下げられて解体されました。明治10年(1877年)には舞鶴公園として整備され、一般に開放されました。

昭和41年(1966年)には文化観光施設として、5層5階の模擬天守が築かれ、門や櫓も同時に再建されました。

平成元年(1989年)には、唐津市役所前に肥後堀と石垣が復元されました。平成4年(1992年)には二の丸跡に時の太鼓が復元され、平成5年(1993年)には市役所付近に三の丸辰巳櫓が再建されました。その後、平成28年(2016年)の調査により、大手門の遺構が初めて確認されました。平成28年10月2日から平成29年7月21日までは天守の内部改修が行われました。発掘調査では、名護屋城と同じ文様の瓦が発掘されました。

平成29年(2017年)4月6日、名護屋城は続日本100名城(185番)に選定されました。

Information

名称
唐津城
(からつじょう)
リンク
公式サイト
住所
佐賀県唐津市東城内8番1
電話番号
0955-72-5697
営業時間

9:00~17:00

定休日

12月29日~31日

料金

天守閣入場料
一般(15歳以上)500円
小・中学生 250円
未就学児 無料

舞鶴公園エレベーター利用料
一般(15歳以上)片道1人につき100円
小・中学生 片道1人につき50円
未就学児および70歳以上 無料

駐車場
有料
アクセス

JR唐津駅より徒歩20分

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