増田神社は、佐賀県唐津市肥前町高串地区に位置する神社です。この神社は、日本で唯一、警察官を祭神として祀っていることで知られています。御神体は増田敬太郎巡査の木像であり、彼のコレラ防疫活動において命を賭して尽力した功績が伝えられています。1895年(明治28年)7月24日、わずか25歳で病死した増田敬太郎巡査の遺骨を、地元の住民が祀ったことから始まりました。
増田神社は、その名の通り増田敬太郎巡査を祀る神社で、佐賀県唐津市の肥前町高串に鎮座しています。この神社の特徴は、警察官を神として祀る唯一の場所であり、警察関係者からも厚い信仰を受けていることです。増田巡査は、コレラの大流行時に防疫活動に従事し、自らも感染し命を落としました。その後、彼の功績を称えて神格化され、住民たちが神社として彼を祀るようになりました。
増田神社の主祭神は「巡査大明神」として祀られている増田敬太郎巡査です。彼は1869年(明治2年)8月10日、熊本県合志郡泗水村で生まれました。増田巡査は幼少の頃から体格が良く、温厚な性格で周囲の人々から慕われていました。彼は地元の私塾で優秀な成績を修め、特に数学に秀でていたことが知られています。その後、東京で法律や鉱山学を学び、1895年(明治28年)には佐賀県巡査教習所に入所し、わずか10日間で教習課程を修了しました。
増田敬太郎巡査は、佐賀県巡査に任命された後、すぐに唐津警察署に配属されました。当時、日清戦争終結後に全国的にコレラが大流行し、特に佐賀県東松浦郡の高串地区でも多くの感染者と死者が発生していました。増田巡査は、その防疫活動に献身し、住民を守るために不眠不休で働きました。彼は感染者を隔離し、消毒を徹底させることでコレラの拡大を防ぎました。しかし、その過労から自身も感染し、1895年7月24日に命を落としました。
増田神社の歴史は、増田巡査がコレラ防疫活動に従事し、命を賭して尽力したことに由来します。彼の死後、村人たちはその恩義を感じ、彼を神として祀るようになりました。1895年の夏、コレラに苦しむ住民の夢枕に増田巡査が立ち、彼の導きによって奇跡的に病気が回復するという出来事が起こりました。これをきっかけに、増田巡査は神格化され、増田神社が建立されました。
増田巡査が神格化された理由は、彼の死後、住民たちが夢で彼の姿を見たことがきっかけでした。夢の中で増田巡査は「高串のコレラはわが仇敵にして冥府へ伴い行きれば、安んじて子らの回復を待て」と言い残し、その後実際に病気が回復したとされています。このような奇跡が続いたため、増田巡査は神として崇められるようになりました。
1895年に建立された当初、増田神社は小さな祠に過ぎませんでしたが、時が経つにつれて信仰が広まり、規模も拡大していきました。1905年には社殿が増築され、鳥居や狛犬が整備されるようになりました。また、日露戦争後には記念として鳥居が2本建てられ、それぞれ「増田神社」「秋葉神社」と名付けられました。これにより、地域の重要な神社としての地位を確立しました。
増田神社は、地元の守り神としてだけでなく、警察官にとっても特別な存在となっています。1923年頃、唐津署の警部補が祭礼に参加したことをきっかけに、警察関係者からの注目を集めました。現在では、増田巡査の命日である7月26日に行われる夏祭りでは、白馬にまたがる増田巡査の山車が出て、警察音楽隊や海上警備艇がパレードに参加します。全国から警察官が訪れ、日本で唯一の警神として増田神社を参拝するのです。
増田敬太郎巡査の顕彰碑は、彼の故郷である熊本県菊池市泗水町にも建てられています。また、増田神社には全国の警察官が足を運び、彼の勇敢な行動とその精神を称えるために参拝しています。彼の勇気と献身的な行動は、今も多くの人々の心に刻まれており、その信仰は絶えることがありません。
増田敬太郎巡査の物語は、メディアでも取り上げられています。2008年にはNHK教育テレビの『知るを楽しむ』という番組で「神になった日本人」というシリーズが放送され、藤原鎌足、崇徳上皇、西郷隆盛などと並んで、最終回で増田巡査が紹介されました。この放送により、増田神社はさらに多くの人々に知られるようになりました。
増田神社は佐賀県唐津市肥前町田野に位置しており、唐津駅から車で30分の距離にあります。公共交通機関を利用する場合は、唐津駅から昭和バスで有浦線に乗り換える必要があり、2回の乗り換えを含め40分から50分ほどかかります。周辺には高串神社や渡錫ノ鼻といった歴史的な場所もあり、観光に訪れる価値があります。
増田神社を訪れる際には、これらの観光地も併せて巡ることで、地域の歴史や文化を深く理解することができるでしょう。