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名護屋城

(なごやじょう)

名護屋城は、佐賀県唐津市に位置する歴史的な城跡です。この城は、豊臣秀吉が文禄の役を始める前に築かれ、前線基地として重要な役割を果たしました。現在、国の特別史跡に指定されており、2006年には日本100名城の一つとして選ばれています。また、佐賀県の歴史と豊臣秀吉の大陸進出の意図を理解する上で、非常に重要な場所でもあります。

名護屋城の概要

名護屋城は、松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市呼子町)にあった城で、戦国時代から安土桃山時代にかけて築かれました。標高約90メートルの波戸岬の丘陵地に位置し、総面積は約170,000平方メートルにおよぶ広大な陣城です。この城は、五重の天守や御殿が建設され、周囲には約120か所の陣屋が配置されました。最盛期には、城下町に10万人を超える人々が住み、大いに栄えました。

名護屋城の位置と歴史的背景

名護屋城が築かれた場所は、もともと松浦党の一族である名護屋氏の居城である垣副城がありました。豊臣秀吉は、文禄・慶長の役を進めるために、この地を大陸侵攻の前線基地として選び、大掛かりな築城を開始しました。城は肥前国松浦郡の北東部、波戸岬に築かれ、名護屋の地名は、秀吉の出身地である名古屋と音が同じであったことも築城地選定の理由の一つとされています。

秀吉の死後と城の廃城

豊臣秀吉の死後、大陸侵攻の計画は中止され、名護屋城はその役割を終え、廃城となりました。建物は唐津城に移築されたとされ、石垣は江戸時代の島原の乱の後に破却されました。現在では、石垣の一部が残り、当時の城郭の面影を伝えています。また、破却された箇所は保存されており、当時の破壊状況を知ることができます。

名護屋城の文化的な意義

名護屋城は1926年に国の史跡に指定され、1955年には特別史跡に昇格しました。2006年には日本100名城の一つに選ばれ、観光客にも人気のスポットとなっています。明治時代には、この地域の地名は「名古屋」と表記されることが多かったものの、尾張名古屋城との混同を避けるために「名護屋」へと変更されました。現在では「名護屋城跡」として知られ、歴史的な価値が高く評価されています。

名護屋城の復元と保存

名護屋城は、当時の建築様式や技術の粋を集めた壮大な城郭でしたが、残念ながら多くの部分が失われています。しかし、城跡としての保存が進められており、訪れる人々は石垣や地形から当時の城の壮麗さを感じることができます。また、一部の遺構は復元されており、往時の姿を偲ぶことができるようになっています。

名護屋城の構造と規模

名護屋城は、本丸、二の丸、三の丸、山里曲輪などを持つ大規模な城郭で、その中心には五重七階建ての天守がそびえていました。城跡から出土した瓦には金箔が施されており、天守に葺かれていたことがわかります。この金箔瓦は、豊臣秀吉の権威を象徴するものと考えられています。

本丸の構造

本丸は東西56間、南北61間と非常に広大で、天守は高さ32間余りの壮大なものでした。また、本丸北西には望楼型の天守台が設置され、そこからは城下町や海を一望することができました。このように、名護屋城は軍事的な要塞としてだけでなく、秀吉の権威と威信を示すための象徴的な存在でもありました。

名護屋城の観光情報

現在、名護屋城跡は観光地として人気があり、周辺には「名護屋城博物館」や「名護屋城跡公園」などの施設があります。これらの施設では、城の歴史や豊臣秀吉の大陸進出の背景について詳しく学ぶことができます。また、春には桜が咲き誇り、城跡を彩る風景が広がります。名護屋城跡を訪れることで、歴史だけでなく、自然の美しさも楽しむことができます。

アクセス

名護屋城跡へは、佐賀県内の交通機関を利用して訪れることができます。唐津市内からはバスが運行しており、最寄りのバス停から徒歩で城跡へアクセス可能です。また、車でのアクセスも便利で、近隣には駐車場も整備されています。

まとめ

名護屋城は、豊臣秀吉が大陸侵攻を目指して築いた壮大な城であり、その歴史的価値は非常に高いものです。現在も城跡として保存され、訪れる人々にその壮麗さを伝えています。また、周辺には博物館や公園が整備されており、歴史を学びながら自然を楽しむことができるスポットとして人気を集めています。佐賀県を訪れる際には、ぜひ名護屋城跡を訪れてみてはいかがでしょうか。

Information

名称
名護屋城
(なごやじょう)

唐津・呼子

佐賀県